
生きてきた日々の断面(メモリー)をつなぐ
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「ひろ子 私の戦後80年展」 に寄せて
2025年.「戦後80年」の夏は、記録にも記憶にも残る過酷な暑さだった。
まだその暑さが残る9月、さすがにメディアの「戦後80年」の喧伝(けんでん)は下火になるように感じられた。
ふと、心許なさをおぼえ、すやすやとしているベッドの中の母に聞いてみた。
――今年は、戦後80年といわれているよ。戦後いいことあった?
みんないいことばっかり。
――どんないいこと?
みんなやさしくなった。
――ふささん(母)が、ニコニコするようになった?
なった。
――ただおさん(父)が家に帰ってきた?
あはははは……
母は、とびきりやさしい言葉で語ってくれた。
戦時中も戦争反対を貫いていた父への「あはははは……」には、どれだけの思いが宿っていることだろう。
戦後80年というフレーム(枠組み)を借りて、かけがえのない一人ひとりの人生の時間をつなぎ、母とその絵の中の人たちと、もう一度会いたいと思った。
昨春、母が「私の青春万歳!」と叫んだときとは異なる視座で。
こどものアトリエ 三輪優子・三輪ほう子
三輪寛子
1928(S3) 東京都豊島区に生まれる。 学校3年生17歳で、敗戦を経験。
1946(S21) 東京都立高等家政女学校専攻科卒業。丸木位里・俊が豊島区アトリエ村で主宰するデッサン会に参加。 一時期、丸木夫妻に師事。
1947(S22) 日本美術会所属。 この頃、油絵「祭り」で高い評価を受ける(カレンダー9月に掲載)。
1948(S23) 二十歳の頃、街や工場を訪れ、まだ戦争の傷跡が色濃く残る日本の 市井の人びとの暮らしや働く姿を精力的に描く。
1953(S28) 三輪芳郎と結婚。杉並区に住む。 その頃「絵は誰でも描ける」との言葉を胸に、お絵描き教室「こどものアトリエ」を主宰。 その後、3人の子どもを出産。
1961(S36) 東京都内より府中市に越す。 1970年代まで「こどものアトリエ」を続ける。 多いときには50人以上の子どもたちが水・土曜日の午後に参加。 自身の学びとして、ちぎり絵、シルクスクリーン、葦ペンなどの教室に通う。
1970年代末~90年代 夫の海外視察旅行に同行し、アジア、ヨーロッパ、エジプト、南米など 世界各地でスケッチ。
2024.6 2024.10 2025.4.23 2025.12 府中市白糸台・カフェcoo(クー)にて「ひろ子旅のスケッチ展」開催。 同会場にて「ひろ子私の青春万歳展」開催。 97歳の誕生日を迎える。 病気や薬とは無縁に、日々かみかみごっくん、すやすやにこにこと暮らす。 同会場にて「ひろ子私の戦後80年展」開催